卒業の不可能性

呪縛(家入一真)
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イケダハヤト氏とはまた味わいの違う内容だけではなく文章量も薄い肌寒さが季節の変わり目に心地よい家入氏のエントリに秋の風味を添えるべく、偶々斎藤環の著作に目を通していたり、不惑を迎えたせいかつい若者に苛つく己を顧みたりという日暮らしのなかでの「若者」についての走り書き。

「若者」を疎外するには、それが他者であるという認識を前提し、「若者」が他者であるという認識は「自分は若者ではない」という自意識を前提する。

「若者」であるためには自分が若者であるという自意識を必要とせず、「若者」を疎外するためには「自分は若者ではない」という自意識が必要だ。

つまり「若者」は「〜ではない」という形式でしか記述できない記号だ。

「若者」は存在ではなく、段階である。
「若者ではない」ものにしか意識されない。

自分を「若者」だと表明する若者がどれほどいるだろう。あるいは「ウチらももう若くないし」とギャルがマックで語るとき、彼女は「若者」ではないと言えるだろうか。

「若者ではない」という前提は、「自分は若者の段階を卒業した」という認識に支えられている。つまり「若者」でなくなるためには「卒業」というイニシエーションを経たことを承認される必要がある。

その意味で、「若者」は社会的なイニシエーションの対象であって、社会からの承認なしに「卒業」することはできない。

「若者」であるためには自分が若者であるという自意識を必要とせず、「若者」を疎外するためには「自分は若者ではない」という自意識が必要なのは、「若者」は自力では「卒業」できないからだ。

つまり「若者」は「若者ではない」周囲からの疎外によってしか成立しない。
あるいは、「若者」として疎外されているうちは「卒業」することができない。
髪型や服装を変える、定職に就く、結婚する、出産するなどの記号を纏うことによって疎外される側から疎外する側に回るしかない。

「若者」であるという自意識がないだけでは充分ではなく、社会からの承認なしにはその外部に出ることができない。

自己承認欲求が問題になるのは、この「承認」の根拠となる権威が個人主義的自己責任論によって著しく後退したからではないだろうか。「若者」は自己責任において自らを承認して「卒業」しなければならなくなった。

本来「卒業」を承認する権威に根拠はない。それは個人主義的自己責任論においては自明だ。親も学校も会社もそれぞれは自己責任の主体である個人の集合であって、ある個人が別の個人を承認する権威に根拠はない。個人としては等価だから。

自己責任において「若者」を「卒業」するとはどういうことだろう。

「若者」は「〜でない」という形式でしか記述できない。
つまり「若者」というものはない。ただ「もう若者ではない」という承認の手続きが存在するだけだ。

であるならば「ウチらももう若くないし」と宣言すればいいのだろうか。

「卒業」には多くの場合、被保護者としてのベネフィットの放棄を伴う。

いま「卒業」のベネフィットと「若者」であるベネフィットを自分で天秤にかけ、自力で「卒業」を宣言し、自力で「若者」のベネフィットを放棄し、かつ自力で「卒業」のベネフィットを獲得しなければならない。

自力での「卒業宣言」とはある種の多幸感と万能感に支えられなければ維持できないだろうし、その自意識と周囲の評価との差は宣言だけでは埋まらないだろう。そのような自意識は逆説的に幼児性への退行として承認されるだけだろう。

「若者ではない」人間しか「卒業」を承認できない。だから自力で「若者を卒業」することはできない。多くの場合、自力での「卒業」は幼児的な多幸感と万能感に包まれて閉じたループを周る。

結局、自己による承認は自己承認として機能しない。

「卒業」というイニシエーション自体を放棄することによって、「若者」という問題設定を放棄するというのは戦略としてありうる。「ひきこもり」やNEETが生存戦略として持続可能であるならば。いまのところそういう気配はないが。

あるいは別の戦略があるのかもしれないし、あるのならばみてみたい、気がしないでもない。

@1日前
@6日前
R.I.P. ♫ LFOの「Tied Up」  | #SoundTracking アプリから

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@1週間前
#soundtracking 
@1週間前
再生中  ♫ Dopeの「Rebel Yell」  | #SoundTracking アプリから

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@3週間前
#soundtracking 

朝日新聞社長の首を飛ばした木村英昭×宮崎知己ー3年半に渡った東電撤退問題の結末 - 政局観察日記 

この一連の顛末でおもうのはね、仮に“撤退”だったとして一体誰にそれが責められようか、ということなんですけどね。

企業としての東電の責任を問うこととなにか関係あるんですかねそれって。現場は最前線で死ねってことなんですか、それが責任だと。それは玉砕じゃないんですか。

『「報道の力で奪い返す」第13回早稲田ジャーナリズム大賞奨励賞・連載「東京電力テレビ会議記録の公開キャンペーン報道」木村英昭記者に聞く | Spork

 ―事故から2年半以上経ちましたが誰にも責任が追求されていません。報道者としてどう思いますか。
 異常ですよね。原発事故は日本のジャーナリズムにとって2度目の敗北だと思います。一つは、戦争を止められなかった、アジアに侵略したということです。ジャーナリズムはここで一度敗北しています。今回は、結果として原子力発電所の事故を招いてしまったという意味で2度目の敗北です。原発事故は戦争と同じではないでしょうか。戦争の責任はだれも取っていませんよね。一億総懺悔という言葉がありました。国民みんなが悪いんだ、みなさん手を繋いで一緒に責任取りましょう、という。今回も誰も刑事責任を問われていません。これを許してしまっているのが僕たちですよね。ジャーナリズムはそれを許していいのでしょうか』

“今回の件は二人の記者だけの問題ではない。東電悪玉物語なら何でも良しとする朝日新聞や社会の空気が彼等をスター記者に押し上げたからだ。プロメテウスの罠の時点で木村記者と宮崎記者は偏った記者であることは明らかだった。特に木村記者の原発事故対応の記事は官邸の言い分しかない偏りすぎなものだった。それを批判するどころか賞賛し彼ら二人をスターにしてしまったのが今回の吉田調書スクープ誤報の根本の問題なのである”

こういうストーリーをね、早稲田のカレー屋で考えてたとしたら、それはやっぱり傲慢だとおもうんですよね。カレー屋はメルトダウンしないからね。安全なところからアイツラ逃げんたんだと、東電の責任ってそういう話じゃないでしょ。まぁ吊るし上げたかったのは現場じゃなくて政調であり東電だったんだろうけども。

戦争をジャーナリズムの敗北というなら、今回もやっぱり敗北だったんじゃないですかね。

@1ヶ月前

レアルはクロースの補強が当たりっぽい。ビジバシ縦バスで抉ってサイドチェンジで揺さぶ、前任のシャビアロンソより組立に幅がある。ハメスはどっちかというとシャドーストライカー的な使われ方やな。

@1ヶ月前

ゾンビ映画でひとが喰われるタイミングが手に取るようにわかる。

@1ヶ月前

月30ドルで毎日いろいろなNPOに募金して紹介してくれる「Dollar a Day」 : ギズモード・ジャパン
http://www.gizmodo.jp/2014/10/30nponi.html
#SmartNews

@1日前
再生中  ♫ Arch Enemyの「Yesterday Is Dead and Gone」  | #SoundTracking アプリから

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@6日前
#soundtracking 

Nothing Left To Fear (2013) Official Trailer - YouTube 

邦題『少女生贄』

久々にアンヘッシュの名前見たなとかおもって借りたが、特に見せ場なし。

長女役のレベッカ・ブランデスはほとんど無名に近いようだが、ホラーで酷い目にあうために役者になったような逸材。出演作もそんな感じのばっかだし。全力疾走もあるで。

@1週間前
#映画感想 
First shot on 6plus Made with #fragmentapp

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@2週間前
#fragmentapp 
@1ヶ月前

#hyperlapse

@1ヶ月前
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@1ヶ月前
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