朝日新聞社長の首を飛ばした木村英昭×宮崎知己ー3年半に渡った東電撤退問題の結末 - 政局観察日記 

この一連の顛末でおもうのはね、仮に“撤退”だったとして一体誰にそれが責められようか、ということなんですけどね。

企業としての東電の責任を問うこととなにか関係あるんですかねそれって。現場は最前線で死ねってことなんですか、それが責任だと。それは玉砕じゃないんですか。

『「報道の力で奪い返す」第13回早稲田ジャーナリズム大賞奨励賞・連載「東京電力テレビ会議記録の公開キャンペーン報道」木村英昭記者に聞く | Spork

 ―事故から2年半以上経ちましたが誰にも責任が追求されていません。報道者としてどう思いますか。
 異常ですよね。原発事故は日本のジャーナリズムにとって2度目の敗北だと思います。一つは、戦争を止められなかった、アジアに侵略したということです。ジャーナリズムはここで一度敗北しています。今回は、結果として原子力発電所の事故を招いてしまったという意味で2度目の敗北です。原発事故は戦争と同じではないでしょうか。戦争の責任はだれも取っていませんよね。一億総懺悔という言葉がありました。国民みんなが悪いんだ、みなさん手を繋いで一緒に責任取りましょう、という。今回も誰も刑事責任を問われていません。これを許してしまっているのが僕たちですよね。ジャーナリズムはそれを許していいのでしょうか』

“今回の件は二人の記者だけの問題ではない。東電悪玉物語なら何でも良しとする朝日新聞や社会の空気が彼等をスター記者に押し上げたからだ。プロメテウスの罠の時点で木村記者と宮崎記者は偏った記者であることは明らかだった。特に木村記者の原発事故対応の記事は官邸の言い分しかない偏りすぎなものだった。それを批判するどころか賞賛し彼ら二人をスターにしてしまったのが今回の吉田調書スクープ誤報の根本の問題なのである”

こういうストーリーをね、早稲田のカレー屋で考えてたとしたら、それはやっぱり傲慢だとおもうんですよね。カレー屋はメルトダウンしないからね。安全なところからアイツラ逃げんたんだと、東電の責任ってそういう話じゃないでしょ。まぁ吊るし上げたかったのは現場じゃなくて政調であり東電だったんだろうけども。

戦争をジャーナリズムの敗北というなら、今回もやっぱり敗北だったんじゃないですかね。

@1日前

レアルはクロースの補強が当たりっぽい。ビジバシ縦バスで抉ってサイドチェンジで揺さぶ、前任のシャビアロンソより組立に幅がある。ハメスはどっちかというとシャドーストライカー的な使われ方やな。

@2日前

ゾンビ映画でひとが喰われるタイミングが手に取るようにわかる。

@3日前

晒される昭和のおじさんたち

是非はおくとして、インターネットがもたらしたのは新しい相互監視社会であって、それはフーコー的な中央ー周縁的監獄ではなく、また共同体的な互いに知っている者同士の監視でもなく、見知らぬ他人同士が監視しあい告発しあう社会であり、その単位は言論の主体であり文字通りの個人ではない。だから発話者としての法人格その他の集合的主体も含まれる。

好むと好まざるを問わず、そういう現実を生きているということを実存として受け入れられない文字通りの個人がDQNと呼ばれ、それが集合的主体としての 法人だったりする場合のある側面がブラック企業と呼ばれたりするのだろう。

集合的主体としての発話者というのは、実際は文字通りの個人の集合としての意思決定によってなんらかの言論を行うわけだから、その意思決定に至る過程はその集合、その組織に属する個人を規制する制度的在り様によって制約される。だから集合的主体、より絞って言えば企業にとっての実存は歴史的にか意識的にかともかく制度によって制約される。

ところで集合的意思決定というのは、個人としての発話よりも集団としてのそれを個人が好むという風土として、組織と個人との共犯的関係として、たとえば“企業戦士”というような偶像として、ある意味日本企業にとっては得意科目だったはず。そこでの前提としては共同体的相互監視という社会が組織にとっても個人にとっても実存としてリアルだったというのが、多分あった。配慮すべきは向こう三軒両隣とお上というのが制度設計の基礎であって、自分の知らない見知らぬ名もなき多者に監視され告発されるという事態を想定できない。

インターネットがもたらした新しい相互監視社会、顔のない監視社会に対して、個人としてのリアルは各様に適応していくけども、それが集合的振る舞いになると、それはもろもろの制度設計の束として意思決定されるものであって個人の適応の束にはならないから、ずれる。個々人がどうおもおうが、ずれる。そもそも制度というのは組織と個人のずれを組織の側に回収するためにあるわけだから。

昭和のおじさんには他人にガハハガハハとつまらない冗談を言ってはいけないということが理解できない。所属や立場という属性を剥ぎ取られた空間での実存というのが想像できない。自分が何者であるかということと言論がまったく無関係に成立し得るということがわからない。そういうおじさんは制度に守られるということを信じて疑わない。集合的意思決定の中心にはそういうおじさんがいる、制度的にそうなっている。組織の制度に適応している人間が中心に向かうのは組織としては自然な配置だから。

昨今の朝日の炎上コンボは共同体的相互監視社会では正解だった意思決定が顔のない相互監視社会の有象無象の言論にコテンパンに全否定されるという空前の面白事案であって、こんなに不正解を連続して出す方が難しいというくらい。これはもう制度を改革しなさいという話よりも制度そのものの敗北なのかもしれないし、じゃあ制度なき集合的意思決定ってなんなの?というところに一歩近づいたのかもしれないし、それって一般意志2.0的なアレなのかしら?どうなのかしら?という、まことに人類史的になかなかランドマークになる顛末ではないのかなとおもうし、その遠景としてはネラーに晒され告発され続けるDQNたちがいる。9月11日という日付もなにやら因縁めいてるし。

@5日前・リアクション2件
@1週間前

映画『ダリオ・アルジェントのドラキュラ』予告編 - YouTube 

もはや巨匠といっていいダリオ・アルジェントが2012年にもなって今更ドラキュラを濡れ場で始まる三文ホラー映画にする温度感も、コッポラが20年も前にわざわざブラム・ストーカーの原作に忠実に映画化したにも関わらず無造作に設定を変えてしまう適当さも、もはやセレブといっていい愛娘アーシア・アルジェントを親権発動で出演させて『サスペリア・テルザ』同様とりあえず入浴シーンを挿む近親愛も、大したアクションもEFXもないのに3Dで上映する無駄な冒険心も、なにもかもダリオ・アルジェントそのもので、映画の出来と関わりなく素晴らしい。

@1週間前・リアクション1件
#映画感想 #映画 

あっつ

@1週間前

『未完のファシズム』読了

未完のファシズム―「持たざる国」日本の運命―(新潮選書)



タイトルからは政治論、国体論のような印象を受けるが内容は思想史でありながら主要な登場人物が軍人というのが一風変わっている。

前提として、大日本帝国憲法下では国家社会主義的統制政治というのは事実上手続きとして不可能だった、行政・司法・立法の三権と統帥は天皇大権に直属し、かつ天皇の治世自体は”しらす”ものとして主体的には権力を行使しない、この辺り政治が文学に捩れるあたりはやや詳しく紙数を割いているが、ともかく国体そのものがファシズムを未完のものとしていた、というのがあります。

では、ファシズムとはなんぞやという話がありますが、これをナチズムのように狭義で捉えるのではなくて、クラウゼヴィッツのいうような全面戦争を戦いうる政治体制、戦争に向けて国家総動員を可能にするような国体という意味で言うと、多かれ少なかれ第一次世界大戦以降の列強はファシズム体制下にあったともいえる。これは来たる第二次世界大戦を戦うためにはそうならざるをえなかった、そういう点で第一次世界大戦の惨禍が必然としてファシズムを要請した、問題はそれぞれの国情、政治制度、歴史のなかでいかにそれを実現するか、そういうところであり、日本も列強の末席として、また曲がりなりにも戦勝国の側として例外ではなかったということです。

軍人の仕事というのは平時においても戦争があったときにいかにそれに勝つかという準備をすることですから、当然第一次世界大戦の研究を盛んにやった。その結果として、来たる第二次世界大戦が総力戦になるであろう、工業力と技術力の戦いになるであろうという見通しをもっていた。しかし日本は米英独仏露いずれの列強にも勝てそうにない、それでもじゃあどうするかということを考えなくてはいけない。そこから当時の軍人のあいだにいくつかの戦略というか思想が生まれたと、大体そういう要約になるかとおもいます。

第一は「皇道派」。これは小畑敏四郎に代表されるけれども、これは戦略としては短期限定戦争派とでもいうべきもので、要するに列強と総力戦をやっても日本は勝ち目がない、だから戦争する機会自体を限定して、どうしてもやるとなったら短期決戦でやる、持久戦は絶対やらない、だから補給や兵站もいらない、軍の規模も縮小する、戦術的には機動戦による包囲殲滅しかしない、そういうドクトリンで軍隊を最適化しておく、それなら兵士の練度と士気、作戦次第でなんとかなるかもしれない、ということです。仮想敵国もこれはもうはっきりしていてロシアの後継であるソ連です。戦場は満州平野、それしか考えない。つまり日露戦争の再現ならなんとか現実的に方策が考えられそうだ、そういう思想だったようです。

この一派は第一次世界大戦を熱心に研究していろいろ著作を残しますが、後世に大きく影響したのは『統帥要綱』で、これは軍のドクトリンとして第二次世界大戦まで使われるわけですけど、もともとは対露戦だけを想定した短期限定戦争における機動戦、包囲殲滅戦に特化した内容だったので兵站思想がない、多くを兵卒の練度と士気を依存していたのに、2・26事件以降皇道派が軍中枢から失脚して後、背景となる戦略が忘れられても使われ続けることになったと、そういう経緯だったそうです。

もうひとつは石原莞爾に代表される「統制派」、これは一言でいえば富国強兵派で、これからの戦争は総力戦になるのだから日本は工業力も科学力もどんどん強くしなければならない、いま日本経済は第一次世界大戦の軍需景気で生産力が大きく伸びている、欧州は戦火からの再建で手一杯だしアメリカも大恐慌のせいで経済成長が止まっている。だからいまから富国強兵に励めば30〜40年後には追いつける、そういう考えでした。具体的なプランとしては満州の開発で、日本国内は自由経済が建前で経済界の自主性が強く、なかなか軍主導の国家総動員体制になりにくいが、満州なら関東軍主導でやれる、実際石原は満州事変を起こして5カ年計画などを実行する。ただしそれでも列強にも追いつくのは何十年もかかるからできるだけ戦争はやらないのが望ましい、この辺はなにか曖昧な感じがしますが、石原は田中智学の門下で法華にかぶれていたらしいので、いわばそこは政治的思考というより信仰の領域で楽観的だったのかもしれません。石原もやはり東条英機に疎まれて予備役になり、そもそもの満州建国の意図とかは関東軍から失われていく。

こうやってみていくと、思想家的軍人が退場した後に事務屋の東条英機が登場し、形骸化し互いに脈絡がなくなった戦略を換骨奪胎して遂行していく、その東条が対外的にはファシスト的リーダーとして認知されていくというのも、なんだかなぁという感じががします。

「皇道派」も「統制派」も失脚した後に残ったのは「玉砕派」とでもいうべき思潮で、これは大日本帝国憲法下では国家総動員体制というのは事実上不可能なんだから「皇道派」の短期限定戦争も「統制派」の富国強兵策も絵に描いた餅でしかない、軍人が戦争を起こしたり避けたりを選べるわけではなく、軍事と政治は互いに連携せず挙国一致的な意思決定というのも日本の国体ではできないのだから、戦争はいつでも起こりうる。だからイマココの日本で戦争をする算段を立てなければならない。戦争とは要するに相手の戦意を喪失させればいいのだから、資源も技術もなくても勝ち負けを度外視して一億総玉砕して戦い続ければ敵国の世論が挫けるはずだ、これを中柴末純という退役軍人が主張し『戦陣訓』という形で文書化されたと、そういうことらしいです。

戦略とも言えない主張なんですが、一笑に伏せないのはこれはテロリズムだとおもうんですね。少なくとも911の思想の原型みたいなものを見出すこともできるし、戦争が政治化してくると世論に打撃を与える戦術というのが成立してくる。第二次世界大戦後には国家総動員体制は冷戦構造に収斂されて、それが崩れるとテロリズムが台頭してくる、そういうファシズムの不可能性と戦争がテロリズムを召喚する、そういう「もたざる国」の戦争を日本は近代国家という枠組みでやってしまった、そういうふうに『未完のファシズム』というタイトルを読み解くこともできるかなと、そういう気がします。 @3週間前・リアクション2件
#書評 

#hyperlapse

@2日前
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#hyperlapse

@3日前
#hyperlapse 

「悪いやつら」予告編 - YouTube 

韓国のヤクザ映画は鉄板だとおもってるんですけど、これはほんとに面白い。

チェ・ミンシクは『シュリ』とか『オールドボーイ』以来なんでかなり久しぶりだけど、ほんとに巧い。経年変化があるにせよ全然印象が違うし、この作品の中でもどんどん顔つきが変わっていく、ほんとに巧い役者さんだなあ。冒頭の小悪党というほどでもないしょぼさ、80年代の韓国社会でも多分時代遅れなんだろう偏屈さから、根っこの人格も知性も変わらないのにオーラだけ変えていくような芝居は圧巻。

ハ・ジョンウという俳優は多分初見なんだけど、新井浩文をもう少し二枚目にしたような感じで色気がある、これもいい役者さん。

@4日前
#映画感想 #映画 
@1週間前
@1週間前

出発や音楽なんかのレガシーな産業が直面してるのって、儲かると思って育ててきた大衆市場に雪崩をうって裏切られている、という事態なのかもなぁ。

@1週間前

三代目 J Soul Brothers from EXILE TRIBE / 「R.Y.U.S.E.I.」Music Video - YouTube 

繰り返し聴かされるとなんかこれもいいんじゃないかとどこか思えてくるのは、強迫神経症的な何かのせいだけではなく、斎藤環のいうようにぼくらのうちにはヤンキー的なるものというのが普遍的にあるということなのか。

高い外車に乗ってVIP席に座ってエロいネェちゃんを左右に侍らしてピョンピョン飛び跳ねるみたいなヤンキー的欲望を否定できないというか、でもやっぱり「コンセプトはLove Dream Happinessです」とかやっぱりムリですよというヤンキーとしての挫折みたいなイニシエーションというのは自我形成的プロセスとしてありうるんじゃないか、幼児期におけるオイディプスコンプレックス、思春期おけるLDHコンプレックスみたいな。

きみは縄文人か弥生人といえば、EXILE Tribeです多少、とか。

@2週間前